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よびかた

はじめに

当たり前のことですが、様々な呼び方があって良いし誰が何を自称しようと自由です。しかしそれでも、今の状況は「ベストである」とは思えなかったためこんな漫画を描いてみました。「マンガ」という表現のため、多少茶化しているようにも見えるかも知れませんが、そのような意図はありません。


様々な言葉

ニュースや新聞、ネット上を見ると「障害者」よりも「障がい者」という表現を目にすることが多くなってきました。これは「害」という字の印象が悪いため、あえてそこを平仮名にしたコトバです。

また「チャレンジド」は主に海外で目にする表現で「挑戦するチャンスや資格を与えられた人」といったような意味です。

その他の言葉にもそれぞれ意味がありますが、ここで書いていくとキリが無いためやめておきます。


何が問題か

「愛とはなんですか?」という問いに対して一人一人が違う答えを言うように、「障害者とはなんですか?」という問いに対しても、おそらく同じ答えを言う人はほとんどいないでしょう。言葉とは曖昧なもので時代と共に移り変わりますし「絶対」では無いのです。


ある時期「障害者」というコトバに「害の字が気にくわない」という印象を持った人がいました。その人は「障がい者」と言うコトバを作り出しました。しかしその言葉を目にした他の人からは「障の字だって悪い意味はあるのにそっちは無視か」「細かいことを気にしやがって」という感情も生まれてしまいました。


別の所では「チャレンジド」と言うコトバが生まれましたが、こちらに対しても「チャレンジ出来ないほどの障害を持っていた場合はどうする」とか「挑戦する権利なんて欲しくない」といった感情が生まれました。


コトバは器です。たくさんの人がその器に意味を入れていき、次第に元から入っていたものとは違ってしまう場合もたくさんあります。

「障害者」「障がい者」「障碍者」……等々、似たようなコトバがあればあるほど、人は混乱します。どこに何を入れれば良いかわからないし、すでに入っている物も確認しなければいけない。まさに「しっちゃかめっちゃか」になるのです。


問題がぼやける

そのように「似ているけど違うコトバ」がたくさん生まれると、言わば派閥のようなものが生まれ、結局内輪もめのようなことにもなっていきます。そして「狭いところで何をやっているんだ」と馬鹿にされる対象にすらなっていくのです。こんなこと、望んでいた人はいませんよね。ですが、現状を見るとどう考えてもそうなってしまっているように思えます。


そもそも「障害者」というコトバが本当に悪い物だったのかどうか。そこを考えてみましょう。


人によると「障害者が社会に出ると様々な不便を感じる。その不便こそが障害だ!」…と主張していたりもします。しかし、それは本当でしょうか?


「通信障害」と言う言葉があります。これはA地点からB地点までデータを移動させる際、どこかがトラブルを起こしている状態です。それは、A地点が問題かも知れませんしB地点が問題かも知れませんし、あるいは経路に問題があるのかもしれません。何にせよ、「普通であればデータがスムーズに届くのに届かない」というのが「通信障害」である…ということに異論はないかと思います。


ではそこで、自閉症という障害のことを考えてみたいと思います。自閉症はまだまだ本質的な原因は解明されていませんが「脳の障害」であることは確かです。脳の経路の一部に障害があり、正しく情報を処理できない状態。それが「自閉症」です。


こうやって並べて解説すると、これらが全く同じであることがわかっていただけるかと思います。自閉症であれば脳の障害により言葉などをうまく操ることが出来ませんし、手や足に障害がある場合は物をつかんだり歩いたりすることが困難です。「障害」とはその人自身が「害のある人」というわけでは無く、その人の一部に「障害」があるということ。それ以上でもそれ以下でも無いのです。


「障がい者」と言うコトバは「害」という字が使われていないせいで、そういった「脳の機能障害」や「四肢の障害」からも目をそむけてしまいかねない危険性をはらんでいます。確かにそこに「障害」はあるのだから、それを取り除くなり補佐するなりするべきなのに「私たちは(あるいは「この人達には」)害なんて無い!」といった主張を繰り返す。問題がズレていることに気付いていない。僕はここが一番問題だと感じています。目を向けるべきはそういったコトバでは無く、障害の本質。そこであるべきです。


「チャレンジド」も結構ですが、別に人間の生きる目的は「挑戦」だけではありませんので、「障害者」の言い換えとしては不完全だと考えます。ひいき目に見ても「障害者の中のチャレンジド」的な、下位区分の呼び方としての定着をはかるべきではないでしょうか。ここでも結局、障害の本質からズレたコトバにより、混乱が起きてしまっているのです。


おわりに

言葉は他人に何かを強制するためにあるのでは無く、人々がそのものの本質を正しく理解するためにあるはずです。

混乱を収めるためにもまずは落ち着いて、当事者もそうでない人たちも、みんなで「障害者」というコトバを捉え直していきましょう。

そうすれば、一人一人が何をすべきか、見えてくるかもしれません。